言葉へのこだわりの起源

言葉

明日は豚汁を作ろう、と考えていた。

豚汁。

私は「ぶたじる」と言うが、どうも私の周りには「とんじる」と言う人が多いような気がする。
でも私は「ぶたじる」と言いたい。
今まで「ぶたじる」と呼んできたのに「とんじる」と言い換えるのは、都会色に染まってしまった田舎の若者のような気分になるからだ。

なぜ私が「ぶたじる」と言うのか。
それは母が「ぶたじる」と言うからである。

思えば私は、言葉に対するこだわりを母から受け継いだ。

「鮭を『しゃけ』っていうの、嫌い。『さけ』って言えばいいのに、なんでわざわざ『しゃけ』って言うの?」

「端を『はじ』っていうの、嫌い。端は『はし』が正しいのに」

「『おみおつけ』が嫌い。味噌汁でよかろうもん」

「『絶対』なんていうのは、めったに使える言葉じゃない」

「『絶品』が嫌い」

「『一番最後』なんて言葉はおかしい」

「『チンする』っていうけど、今どきのレンジは『チン』なんていわない」

…などなど。

母はまるで明治生まれの頑固オヤジのようだ。
そしてその娘である私は、その影響を受けてしまった。

やけに人の言葉に敏感なのだ。

好きな著名人でも、間違った日本語を使っているのを見たり聞いたりすると、がっかりしてしまう。
無意識のうちに、「正しい言葉遣い」をする作家を探していた。

そして、ついに見つけた。
美しい日本語を綴る人。

…でも…

ん~?
何か物足りない。

確かにその人は美しい日本語を話すけれど、美しすぎておもしろくないのかもしれないな…。

 

その昔、よく手紙を書いていた。
大切な人に送る手紙は、何度も推敲した後、清書してから投函した。
しかし、多少日本語が変でも、勢いに任せて書いた手紙の方がおもしろかった。
直し過ぎると鮮度が落ちるというか。
言葉は生ものなのかもしれない。

そう考えるようになってから、人の言葉遣いはあまり気にしないようになった。
私自身はもの書きの仕事に就いてしまったから、自分の言葉遣いにはそれなりに気をつけるけれど。

正しいか正しくないかというより、この言葉が好きとか嫌いとかいうのはある。
昔は「間違い」だった日本語も、今では「正しい」とされるものが増えてきたしね。

で、私は「ぶたじる」と「とんじる」のどっちが正しいかを論じたいわけではない。
「ぶたじる」の響きの方が好きだから、「ぶたじる」を選ぶのであった。

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